「楽しくやろう」というけれど...冷静と情熱の間で仕事する

2012.8.30  2891Views

皆さん、こんにちは。常見陽平です。




大好きな番組、文化系トークラジオLifeに出演しました。
3月にも一度、出演し、また出たいなと思っていたので声がかかり、感激です。
前からお会いしたかったパーソナリティーのCharlieこと関西学院大学准教授の鈴木謙介先生、5年前に「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」で論壇に一石を投じた赤木智弘さんとご一緒できて感激です。
他にも素敵な出会いと再会がいっぱいでした。
本編、外伝含めてあっという間の4時間半でした。


今回のテーマは「"楽しくやろう"というけれど...」でした。
パーソナリティーCharlieの問題意識、どんなことが議論されたかなどはこちらをご覧ください。
少しずつ、Podcastでも公開されていますよ。


私はおかげ様で、自分の好きなことを仕事にして、楽しんで取り組んでいるのですが、そんな私でもこのテーマについては、複雑な心境になるものです。
このテーマについて、思うことを、番組でお話しできなかったことも含めて徒然なるままに書き綴ることにしましょう。


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「楽しくやろう」は所詮、組織の論理である






まず、言いたいのは「楽しくやる」ということに対して、さめた視点を持つべきだということです。


所詮、これも組織の論理ではないか、と。
この言葉にみんな、うまい具合に踊らされ、騙されているのではないかと。


「楽しくやろう」という背景には、取り組むこと(会社員の場合、仕事)が困難なこと、辛いこと、嫌なことだということが背景にあるのではないか、と。
要するに、つらいことを隠蔽するために連呼されているのではないかと考えてしまいます。
企業を取り巻く環境が厳しくなる中、「楽しくやろう」は鎮痛剤的に使われているのではないでしょうか。


日本企業においては、昭和の時代から、職場のモチベーションを上げるために運動会を開いたり、飲み会の予算化を行ったり...。
誓約集団化、心の信頼関係の醸成、運命共同体化が行われていました。
そして、あたかも職場が明るく、仕事が楽しいかのように演出する、「明るいブラック企業」が問題となっており、明るく楽しく激しい搾取が行われています。
「今月もサビ残70時間しちゃった!でも、仕事が楽しいからいいや(テヘペロ)」なんて異常です。
Facebookで若い人の働き方を見ていると、切なくなります。


実際、採用広告とその企業の実態を比較すると、「仕事が楽しい」「お客さんの笑顔が嬉しい」「熱く楽しく取り組もう」アピールはブラック企業の常套手段なんですよね...。


これに関連しますが「従業員満足度」という概念が話題になります。
これが大事であることはよく理解しておりますが、これも単なる美談ではないです。
所詮は企業として、成果を出すためのものに過ぎません。
やや飛躍しますが、ワーク・ライフ・バランスに関する制度だってそうで、これは従業員のことを思う制度という側面だけではなく、優秀な人に辞めて欲しくないからという側面を意識しておきたいです。


まず、この「楽しくやろう」という言葉の持つ、危険な側面、下心を認識しておくべきだと考えています。




「楽しい」とか「幸せ」はいい加減な指標である




次に、この「楽しい」という指標が実にいい加減であるかということについてふれておきましょう。


「楽しくやろう」もそうですが、「やりがい」「働きがい」、もっと言うと「幸福度」「満足度」などという指標、変数はそもそもいい加減であることに気づくべきです。
幸福度論争、例えば『絶望の国の幸福な若者たち 』(古市憲寿 講談社 2011)に代表される「今の20代は幸せ」論、幸福度が高いとされるブータンを見習え論、2009年に『AERA』での対談で話題になった勝間和代対香山リカの論争など、最近、「幸福度」などが話題になることが多いわけですが、これは指標として実に不安定です。


相田みつをの名言に「幸せは自分の心が決める」というものがありますが、やや本来の意味をこえて超訳すると、要するに、自分が幸せだ、楽しいと思えば幸せなわけですよ。
悪い男にハマっている女性も実は幸福を感じていたりしますし、同世代で年収1500万円ももらっている友人は会社の悪口ばかり言います。


これまた敢えてさめた意見を言いますが、古市論でよく説明される「インターネットや携帯電話を使え、マクドナルドや吉野家で外食し、ユニクロなどのファストファッションでおしゃれができる。昔は、スキーや旅行など、楽しみにとてもお金がかかりましたが、今の若者はそこそこのお金でそこそこ楽しめる環境を与えられ、自身が低収入でも、裕福な親に頼ることもできます」という意見があり、私の教え子たちもこれを支持していましたが、私はマクドナルドや吉野家での食事はできるだけ避けたいですし、ユニクロの服は着たくないですし、スキーや旅行のない人生なんてあり得ないです。
親に頼るのなんてもってのほかで、会う度にできるだけ私がおごるようにしています。
同様にいくら幸福の国だと言われても、ブータンには住みたくないですし、勝間さんにも香山さんにもなりたくはありません。


やや話が拡散、飛躍しましたが、所詮、「楽しい」「幸せ」という指標はいい加減だということに気づくべきです。




「楽しい」が脅迫になってもいけない。




物事は楽しい方が、楽しくやった方がいいに決まってるとみんな考えるものですが、「楽しくやろう」とか「楽しもう」は時に、暴力的な言葉になりえます。
世の中には楽しむことが苦手な人もいるのです。


そもそも、会社や、いや学校さえも「楽しい」かどうかが約束された場所ではありませんし、本来であれば、成果さえあげていてやるべきこと以上のことをやっていれば、楽しくやろうと、つまらなくやろうと関係ないはずです。


でも、周りの楽しそうな様子に馴染めず、職場で信頼され、期待されているだけのパフォーマンス を出しているのにも関わらず、「楽しめていない自分ってダメ...」ということでキャリア迷子になってしまう人もいるわけです。


この件は私も実は幼い頃から悩んでいました。
私は幼稚園と小学校が大嫌いでした。
友達がいなかったわけではなく、むしろ結構いた方なのですが。
幼稚園の頃から運動会や合唱コンクールなど集団行動に激しく疑問を持ち、元々の能力・資質、価値観、外見などを無視し画一的な服装をさせ、笑顔で演技させられるのが苦痛だったのです。
「子供は笑顔で、前向きに物事に取り組まなければならない」という規範が人を苦しめているわけです。
これは大人社会においてもかわりません。


「楽しそうにする」ことが強要されるのもどうかと思います。


淡々と仕事をする、学ぶことについてももっと寛容な社会と会社にならないものでしょうか?




とはいえ、楽しまないとやってられない




ここまでさめた意見を言っておいて、いきなりちゃぶ台をひっくり返しますが、とはいえ、庶民の処世術としては、辛いことを乗り切る意味でも、高いパフォーマンスを発揮する意味でも、「楽しもう」という姿勢をもった方がいいかな、と思っています。


仕事も勉強も、基本、苦行プレイですよ。
完全なる幸せなどなかなかないものです。
努力しないでできること、苦労しないで得たお金ですることの満足度はたいてい、そこそこです。


悩ましいもので、楽しいことは楽じゃないんですよね。
仕事も勉強も、困難を乗り越えるからこそ楽しいわけです。
お金をもらうということは、他の人がお金を払ってでもやって欲しいこと、あるいは気持ちを楽にさせることを代行するということだとも言えます。
それって、そもそも大変なんですよ。


楽しい、楽だと思ったところで、その先もますます奥が深いわけですし。


明らかに人間関係最悪で、お金など大人の事情でやっているバンドのライブでのパフォーマンスが笑顔に満ちていて、もう1000回以上演奏した曲を楽しそうに弾いている様子を見ると、プロを感じたりします。
彼らは人を楽しませてお金をもらっているわけですし、そのためにも楽しむのに必死なのかな、と。


まとめですが、組織で働く上では...。
「楽しい」と思っていても、所詮、それは踊らされていることにすぎないということに冷静になりたいところです。
番組でも3MやGoogleなどで、業務時間の何割かは好きなことに使うというルールが話題になり、これが個人の能力ややる気を引き出す美談として取り上げられていましたが、同意するものの、所詮、それも組織の利益になるからなんですね。


そんなさめた視点を持ちつつも、楽しまないとやっていけないわけですし、楽しくやった方が楽しいわけですね。
そんな原稿を、約250人分のレポートを採点した後で、複数の原稿締め切りに追われながら書いています。
自分がラッキーだったのは、社会人の初期段階から、仕事を楽しむコツに気づいてしまったことですね。


私流に言えば...、
「仕事の中に自分のテーマ(裏テーマ)を見出すこと」
「仕事を創ること」
「ドラマやアニメ、漫画、音楽の主人公と自分を重ねること」
「やりきる時間を決めること」
「仕事があることに感謝すること」
これらが楽しむコツですね。


というわけで、「楽しい」という言葉にダマされない視点を持ちつつ、楽しくいきましょうよ、えぇ。


執筆者プロフィール

常見陽平

常見陽平

評論家
北海道札幌市出身。一橋大学商学部卒業。一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。
リクルート、玩具メーカー、クオリティ・オブ・ライフ(現在:フェロー)を経てフリーに。
雇用・労働、キャリア、若者論などをテーマに執筆、講演に没頭中。
2015年4月 千葉商科大学に新設された国際教養学部の専任講師に就任。
著書多数。